草間彌生の作品と魅力を探る

草間彌生

草間彌生は90歳近くになった現在でも精力的に作品作りを続け、世界中の人たちの心を捉え続けています。草間彌生の魅力を、生い立ちと共に紹介します。2016年には米『TIME』誌の「世界でもっとも影響力のある100人」に選ばれ、文化勲章も受章しています。

水玉模様の作品で知られる草間彌生ですが、元々、幼い頃から統合失調症に苦しみ、幻覚幻聴に悩まされていました。幻覚や幻聴を絵に描きとめることから創作のキャリアがスタートします。
「水玉は幻覚や幻聴から身を守るためのもの」と草間は言います。
草間作品の代名詞でもある水玉は自身を防衛するためのものだったのです。
自身の創作の出発点は本能的に恐怖から逃れるために絵筆をとったと語っています。

草間彌生001_09

出自と渡米まで

長野県松本市生まれ。種苗業を営む裕福な家庭で育ちます。
1945年16歳の時に「第一回全信州美術展覧会」にて作品が入選します。
その後、京都市立美術工芸学校(現:京都市立銅駝美術工芸高等学校)に4年生最終課程に編入。日本画を学んだあと卒業します。

卒業後、再び松本の実家に戻り、引きこもってひたすら絵を描いたといいます。

1952年に長野で2回の個展を開きます。ここで草間に転機が訪れます。
精神科医である西丸四方草間の個展絵を購入します。
西丸氏によって医学学会で草間の作品が紹介されるほか、2度目の個展では著名な美術評論家・瀧口修造よりパンフレットに寄稿文が掲載されます。
この西丸氏、瀧口氏両氏は草間にとって生涯に渡り、よきメンターとなります。

1954年には東京で4度の個展を開いた後、瀧口氏の紹介によってニューヨークの「第18回国際水彩画ビエンナーレ」に招待されます。
これをきっかけに1957年,28歳の時に渡米し、日本ではほぼ無名であった草間はここから世界的に知名度が上がっていきます。

(左)「残夢」1949年 (右)「太陽」1953年
(左)「残夢」1949年 (右)「太陽」1953年

「前衛の女王」として

ニューヨークに活動の拠点を移した草間は初めは抽象表現主義運動に影響を受けて作品制作を行っていましたが、彫刻家であるドナルド・ジャッジや映像作家のジョゼフ・コーネルなどと知り合い、徐々に彫刻作品インスタレーション発表し始めたころから注目され始めます。
以後、ジョゼフ・コーネルとは72年にジョゼフが死去するまで恋人・パートナーとして共に生活します。

ニューヨーク時代の草間
ニューヨーク時代の草間

60年代に入るとアンディ・ウォーホル等と共に展示会を開き、当時のポップアートムーブメントと相まって一気に注目されます。
その後「前衛の女王」として草間彌生は世界的な人気を獲得していきます。

「The Man」1963年
「The Man」1963年
「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」(1965年)
「無限の鏡の部屋:ファリスの平原」1965年
「ナルシスの庭」1966年
「ナルシスの庭」1966年
自己消滅(網強迫シリーズ)1966年頃
自己消滅(網強迫シリーズ)1966年頃
パフォーマンス・アート「ウォーキング・ピース」1966年
パフォーマンス・アート「ウォーキング・ピース」1966年

「ハプニング芸術家」としての草間彌生

ニューヨークでの草間は「クサマ・ハプニング」と呼ばれる一連の過激なパフォーマンスやインスタレーションでも注目を集めました。
裸の男女に水玉のボディペインティングを行ったり、ヘアヌードのパフォーマンス、セックスをテーマにした「ハプニング芸術」ニューヨークで高い人気を得ました。(しかし、当時の日本のアートシーンでは「奇をてらっている」とバッシングを受けたそうです。)

「クサマハプニング」と呼ばれたパフォーマンスアート
「クサマハプニング」と呼ばれたパフォーマンスアート

パートナーの死と帰国

パートナーであるジョゼフ・コーネルが死去すると、精神的な不調が続き1973年に帰国し、入院することになります。
以後、草間は入院生活を送りながら創作を続けていくことになります。

「自殺した私」1977年
「自殺した私」1977年

また、このころより文学作品の創作を始めます。
性や暴力、殺人などをテーマにした作品は高い評価を受け、小説「クリストファー男娼窟」で第10回野生時代新人文学賞も受賞します。

1980年代以降はそれまで制作してきた絵画や彫刻作品、インスタレーションのモチーフとして使用し続けてきた水玉やネット、男根状のモチーフなどを再解釈し、具体的なモチーフと組み合わせて作品を制作していくことになります。
ここから現在、日本でもなじみ深い草間作品の作風が形作られていきます。

しかし、帰国後の草間は文学作品などで評価を得たものの、アートシーンからは国内外でも忘れ去られていた存在になっていました。

回顧展と再評価

1989年、ニューヨークで回顧展が開かれ、これをきっかけに草間彌生の再評価熱が高まります。1993年には第45回ヴェネツィア・ビエンナーレで日本代表として日本館初の個展を開催、1998年にはニューヨーク近代美術館で回顧展「ラブ・フォーエバー草間彌生 1958-1968」が開催され再評価が決定的になりました。
また、2010年頃からは巡回回顧展が世界中で企画されています。

「かぼちゃ」1999年
「かぼちゃ」1999年
「黄樹」1992年
「黄樹」1992年
「Infinity Mirrored Room」
「Infinity Mirrored Room」

2012年にはルイ・ヴィトンコラボレーションが実現し話題になりました。
また、「au」の新ブランド「iida」の携帯端末デザインや、テイトウワのジャケットデザイン、近年ではファッションブランドX-LARGEとのコラボレーションなど商業分野でも活躍し認知されています。

ルイ・ヴィトンとのコラボレーション
ルイ・ヴィトンとのコラボレーション
ルイ・ヴィトンとのコラボ
ショーウィンドウには草間そっくりの人形がディスプレイされている。
テイ・トウワのジャケットデザイン
テイ・トウワのジャケットデザイン
iida
「au」の新ブランド「iida」の携帯端末デザイン2009年

わが永遠の魂

2009年から「わが永遠の魂」と題し、大型の絵画シリーズを描き続けています。2017年現在までに500点近く制作された一連の絵画シリーズは、草間の圧倒的なアートへのパッションを感じることができます。
「わが永遠の魂」は草間彌生の芸術の集大成であり、継続した創作は、今後の草間彌生の表現活動の中心となるでしょう。

(左)「わたしは漫画家になりたい」2015年 (右)「しのびがたい愛の行方」2014年
(左)「わたしは漫画家になりたい」2015年 (右)「しのびがたい愛の行方」2014年
(左)「死の美しさ」2014年 (右)「幸いのすべて」2014年
(左)「死の美しさ」2014年 (右)「幸いのすべて」2014年
(左)「心」2015年(右)「私に愛を与えて」2015年
(左)「心」2015年(右)「私に愛を与えて」2015年

草間彌生

「草間彌生全版画 1979‐2017」