現代の多くのクリエイターにも大きな影響を与えている江戸時代の絵師、伊藤 若冲(いとう じゃくちゅう)は明治以降は一般的には忘れがちな存在でしたが、90年代後半から、アメリカ人コレクターのジョープライスの紹介によって、じわじわと人気が再燃してきています。異端でありながら、ユーモラスな作品を数多く残した伊藤 若冲の魅力を紹介します。
果物屋の長男として生誕
若冲は正徳6年(1716年)に、青物問屋である「枡屋」の長男として、裕福な家庭で生まれ育ちます。しかし、禅僧・大典顕常の記録によると、若冲自身は成人しても商売の事は全く関心がなく、さらには芸事や酒にも興味を示さず、また、生涯独身だったと記述されています。若冲は「絵を描くこと」以外、世間の事には関心がなかったのです。
30歳からの修行の日々
30歳を過ぎてから本格的に絵を学び始めます。当時の絵画の主流であった狩野派に弟子入りをしますが、オリジナルの画法を見出すことは出来ないと悟り、以後は独学で描き続けます。
また、模写のため様々な寺院に赴き、模写をし続ける事で腕を磨いていったと言われています。若沖は鶏を好んで描き、庭に数十羽も飼育してました。鶏を描き続けることにより生物の内面が垣間見え、他のモチーフも自在に表現できるようになったのです。
隠居と「動植綵絵」の制作着手
40歳になった若冲は俗世間からドロップアウトし、隠居生活を始め、1758年頃から「動植綵絵(どうしょく さいえ)」を描き始めます。
これは若冲が好んで描いた鶏をはじめとする動植物を、躍動的かつ鮮やかに描いた一連のシリーズです。当時の最高級である絵具を惜しみなく使用してるため、現在でも状態が良いまま保存されています。
メキメキと画家としてのキャリアを積んだ若冲は人気画家になっていました。
当時の文化人などを記した「平安人物志」などでは円山応挙に次ぎ2番目に記載され程になっていたのです。
若沖の作風
当時としては先進的な画家で、様々な表現技法を試していました。
動植物を細密に書き込み、高い画力をもち合わせていた若沖ですが、西洋絵画を想起させるような、「枡絵描」というモザイク画のような技法を用いた作品や、毛筆の勢いを多用した水墨画など、多種多様です。
また、動物をデフォルメし、擬人化させてユーモアたっぷりのタッチの作品も多く制作したのも特徴です。
青物問屋の息子として育ったせいか、モチーフとして野菜や果物が多く登場します。釈迦が涅槃に入る様子を描いた仏画「涅槃図」では、若沖は登場人物を全て野菜に置き換えて描いおり、若沖作品のユニークな一面も見ることができます。
晩年
72歳の時に京都を火の海にした“天明の大火”に遭い、家や私財を一切に失います。画業生活を支えていてくれた弟からの支援もなくなっていたため、若沖も仕方なく「売るため」に絵を描かなければなりませんでした。
また、石峯寺の本堂に石仏群・五百羅漢像を築く計画を立てます。
下絵を若沖が描き、石工が築くといったプランで住職などの協力も得て、10年あまりの歳月をかけて完成させます。
そして、1800年10月27日、84歳で往生します。
晩年期は京都の石峯(せきほう)寺の門前で隠居したと伝えられています。
私財を失い、貧困であったそうですが、無欲だった為それほど苦しい生活を送っていたわけではなく、むしろ悠々自適な生活を送っていたそうです。

現代でも大きな人気を得ている若沖ですが、2016年で生誕300年になります。
多くの展覧会でも彼の作品を鑑賞できますので、一度美術館に足を運んでみてはいかがでしょうか。