パブロ・ピカソの凄さを改めて振り返る

picasso

パブロ・ピカソは20世紀最大の芸術家と言われ、生涯において非常に多くの作品を残した作家でした。油絵と素描1万3500点、版画10万点、挿絵3万4000点、彫刻と陶器300点を制作し、最も多作な作家であるとギネスブックにも認定されています。
また、2015年には「アルジェの女たち」が1億7900万ドルで落札されました。
また、「キュビズム」の創始者であり、音楽や文学においても多大な影響を与えました。

「アルジェの女」(1954-55年)
「アルジェの女」(1954-55年)

早熟の天才・キュビズムの創始者

ピカソは早熟の天才として注目されていました。
すでに幼少期から圧倒的なデッサン力と表現力を持っていたため、画家である父親は絵を描くことをやめてしまったといわれています。

左(8歳時のデッサン)中(15歳ごろの作品)右(15歳ごろの作品)
左(8歳時のデッサン)中(15歳ごろの作品)右(15歳ごろの作品)

「ようやく子どものような絵が描けるようになった。ここまで来るのにずいぶん時間がかかったものだ。」と晩年にピカソの言葉がありますが、作家としての特徴は次々に作風を変えていった点が挙げられます。
作風は「青の時代」(1901-1904)、「ばら色の時代」(1904-1906)、「アフリカ彫刻の時代」(1907-1909)、「分析的キュビスム」(1909-1912)、「総合的キュビスム」(1912-1919)に分かれると分析されています。

「サルタンバンクの家族」
「サルタンバンクの家族」
「老いたギター弾き」(1904年)
「老いたギター弾き」(1904年)
「アヴィニョンの娘たち」(1907年)
「アヴィニョンの娘たち」(1907年)

中でも「分析的キュビスム」の時代では、モチーフを一つの視点から描くのではなく様々な視点から見たイメージを構成する絵画手法<キュビズム>を生み出しました。

「泣く女」(1937年)
「泣く女」(1937年)
「ドラ・マールと猫」(1941年)
「ドラ・マールと猫」(1941年)

キュビズムはピカソの「アビニョンの娘」が記念碑的作品とされていますが、キュビズム自体は「分析的キュビズム」と「総合的キュビズム」に分かれます。
「分析的キュビズム」の時代の作品は灰色や黒系統などのトーンでの色彩に限定されており、画家ジョルジュ・ブラックとともに切磋琢磨しながら作品を作り上げていました。
「総合的キュビズム」の時代では、絵画に砂を混ぜたり、木目模写を施すなどの実験的な技法が行われました。

商売人としてのピカソ

ピカソは生前にわずか一点の絵画のみしか売れなかったゴッホとは違い、経済的に大成功しています。
遺産の評価額は7,500億円であったとも言われ、自らの作品の価値をお金に換えることに関しても才能を発揮していました。

ピカソは自身をブランド化し、作品を購入するパトロンを多く抱えていました。
展覧会には数十人ものパトロンを呼び、丁寧に作品を解説し作品そのものよりも作品が持つストーリーに価値をつけていました。
複数の画商に対して競争原理を働かせ、作品の価格を上げる手法も行っていました。

政治的なイデオロギー

1937年スペイン内戦時に小都市ゲルニカを無差別空爆をしたことをモチーフにした「ゲルニカ」は非常に有名ですが、他にも朝鮮戦争で起こった信川虐殺事件「朝鮮の虐殺」を発表したりと、作品を通して空爆や虐殺の惨たらしさを伝えています。
また、1940年にナチスドイツがパリを占領しますが、多くの美術家がアメリカに移住する中、ピカソはパリに居続けます。
このことはピカソの名声をより高めることになります。ひたすらパリのアトリエで製作を続けていたと言われます。
ピカソ自身は市民軍や独立運動に身を投じず平和主義的な姿勢を保っていましたが、1944年にはフランス共産党に入党し、死ぬまで党員であり続けました。

「ゲルニカ」1937年
「ゲルニカ」1937年
「朝鮮虐殺」1951年
「朝鮮虐殺」1951年

晩年

84歳の時に胆嚢の手術を受けて以来、死をとても恐れるようになったと言います。
作風を変化していくことで有名なピカソですが、晩年にはよりプリミティブな作品を量産します。
晩年の作品群は新表現主義に大きな影響を与えたといわれます。

「自画像」1972年
「自画像」1972年

現在「箱根彫刻の森美術館」でピカソの常設展示館で多くの作品を鑑賞することが出来ますので興味ある方は足を運んでみてはいかがでしょうか。